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偉人の生き方に学ぶ処世術、西郷隆盛

tachibanaya 12か月 ago

西郷隆盛の肖像

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Contents
  1. 人生を時代という運命に任せた巨人、西郷隆盛
    • 西南戦争、西郷の真意はどこにあったのか?
    • 西郷隆盛の概要
      • 幼少・青年時代
      • 郡方書役時代
      • 斉彬時代
      • 大島潜居前後
      • 寺田屋騒動前後
      • 徳之島・沖永良部島遠流
      • 禁門の変前後
      • 第一次長州征伐前後
      • 第二次長州征伐と薩長同盟
      • 四侯会議
      • 薩土密約
      • 大政奉還と王政復古
      • 戊辰戦争
      • 鳥羽・伏見の戦い
      • 東海道先鋒軍参謀
      • 江戸無血開城
      • 上野戦争
      • 凱旋
      • その後の略歴
      • 西南戦争
      • 背景
      • 発端
      • 戦況
      • 結果
      • 西郷隆盛の名言
    • まとめ

人生を時代という運命に任せた巨人、西郷隆盛

西南戦争、西郷の真意はどこにあったのか?

征韓論に敗れて下野した西郷は、郷里の鹿児島に戻り、後進の育成にあたります。
西郷が下野した時、多くの薩摩出身者が官を辞して従おうとしますが、西郷は中央で働いた方が良いと思う者は、言い含めて東京に残しました。

そして鹿児島では、私学校で若者たちに文と武と農を教えていきます。
正しい日本人の心を持った若者を育成し、将来の日本を託すに足る人材とするためでした。

西郷は、あくまで日本のためになることをすべきと常に考えています。
各地で起こる不平士族の叛乱に同調しないのも、当たり前のことでした。

しかし明治政府は、西郷と私学校の存在を怖がりました。
そして鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に搬出し、また状況偵察と謀略のために24名の警察官を潜入させます。

これが私学校の若者たちを「姑息な手段」と激昂させ、弾薬庫襲撃につながりました。

襲撃の知らせを受けた西郷は「ちょしもた(しまった)」と叫んだといわれます。
これで政府への反逆を問われても仕方がなくなり、また政府への不満を抱く鹿児島士族の面々にも火をつけてしまったからでした。

その後、桐野利秋や村田新八、永山弥一郎、篠原国幹らを中心に、政府問罪のための軍を起こすことに決しますが、西郷は以後、全く主体的に関わろうとはしません。

もし挙兵を阻止するつもりであれば、西郷が腹を切って慰撫すれば済んだかもしれず、また本気で戦うのであれば、長崎で軍艦を奪うなり、いくらでも方法はありました。

しかし、西郷は沈黙したまま、旧式の装備のまま鎮台軍が待つ難攻不落の熊本城に攻めかかるのです。

少なくとも西郷は、政府軍を破って内乱を大きくしようとは思っていなかったのでしょう。
維新の際、江戸無血開城まで実現させた西郷が、内乱の無益さを知らないはずがありません。

では、勝つつもりもなく、政府軍と戦う西郷の狙いとは何であったのでしょうか?

以下は全くの想像ですが、西郷は維新の結果、巷にあぶれてしまった武士の最後の死に場所にしたかったのではないでしょうか?

新政府の仕打ちに燃え上った私学校の若者を、西郷も抑えられなかったんでしょう。

多分西郷は、事ここに至ればここで終わりにしたかったのではないか?
西郷の無欲を見てみると、私はそんな風に考えてしまいます。

半年余りの九州各地での激戦の末、9月24日の明け方、城山で股と腹部に銃弾を受けた西郷は、正座して東方に遥拝した後、別府晋介に介錯させました。享年51歳。
51歳と云えばあのナポレオンと同じですね。偶然であっても不思議なことです。

西郷隆盛の概要

幼少・青年時代

文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれる。

天保10年(1839年)、郷中(ごじゅう)仲間と友人との喧嘩の仲裁に入ち、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。
西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。

天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。
この頃に下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組(にせこ)に昇進。

郡方書役時代

弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入。
弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。

嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。
これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。

伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。
この年、赤山らの遺志を継ぐために、近思録崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)・税所喜三左衛門(篤)・吉井幸輔(友実)・伊地知竜右衛門(正治)・有村俊斎(海江田信義)らとつくった(このメンバーが精忠組のもとになった)。

斉彬時代

嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。
嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀(敏(敏子)であったとも云われる)と結婚、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去。

嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余。
この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。

2月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。

安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。
4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになる。

安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。
12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。

この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。
安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。

7月、斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に持って行く。
12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。

この頃の斉彬の考え方は、徳川慶喜を第14代将軍にし、幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、西郷はその手足となって活動した。

安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会い、国事を話し合った。
5月、帰藩。次弟・吉二郎が御勘定所書役、三弟・信吾が表茶坊主に任ぜられた。

10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた(大久保正助(利通)も同時期に徒目付になっている)。
11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。

12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。

5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。

7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。

7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を実施した(兵を率いて東上するつもりであったともいわれる)が、7月16日、急逝した。

7月19日、斉彬の弟・島津久光の子・茂久が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。

大島潜居前後

安政5年7月27日(1858年9月4日)、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意した。

8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。

9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵を図ったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。
捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。

11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向国)へ追放すること(これは道中での斬り捨てを意味していた)に決定した。
月照・平野、付き添いの足軽阪口周右衛門らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。
すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生し同志の税所喜三左衛門がその看病にあたったが、回復に一ヶ月近くかかった。

藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕・重助を連れて引き上げた。

12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。
12月末日、菊池源吾と変名して、鹿児島から山川郷へ出航した。

安政6年1月12日、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。

島では美玉新行の空家を借り、自炊した。

この間11月、龍家(もと田畑家)の一族、佐栄志の娘・とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。
当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。

万延2年1月2日(1861年2月11日)には菊次郎誕生。

寺田屋騒動前後

文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして、小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。
西郷は11月21日に召還状を受け取ると、2月12日に鹿児島へ着いた。

2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門と改名した。

3月22日、村田新八・森山新蔵を伴い29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。
しかし、4月6日、姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったことから激怒し、西郷・村田・森山の捕縛命令を出した。
捕縛された西郷らは10日、鹿児島へ向けて船で護送された。

西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島へ遠島が命ぜられた。

徳之島・沖永良部島遠流

文久2年6月11日(1862年7月7日)一湊を出航、奄美へ向かった。
七島灘で漂流し、奄美を経て7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。

偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。

8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて徳之島岡前に上陸。
翌27日にはさらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届き、徳之島井之川へと移送される。

西郷家の知行・家財は没収され、最悪の状態に追い込まれていた。

閏8月初め、徳之島井之川を出発し、西郷隆盛を乗せた宝徳丸が14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。

当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。
この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。

この頃、本土では、閏8月に会津藩主・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代となった。

薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとって、公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。
この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。

元治元年2月21日(1864年3月28日)、吉井友実・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来て帰還の途についた。

禁門の変前後

元治元年2月28日(1864年4月4日)に鹿児島に帰った西郷は足が立たなかった。
29日、這いずりながら斉彬の墓参をしたという。

3月4日、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、14日に京都に到着し、19日に軍賦役(軍司令官)に任命された。

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。

こうして形成された薩摩藩への悪評(世論も大きな影響を持っていた)は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となった。
西郷は6月11日に大坂留守居・木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した。

4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。

池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。
これに対し西郷は、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。

18日、長州勢が皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷と伊地知正治らは諸所の救援に薩摩兵を派遣して長州勢を撃退した(禁門の変)。

この時、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。

この事変で、長州の来島又兵衛・久坂玄瑞・真木保臣ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸」と呼ばれるようになった。

第一次長州征伐前後

元治元年7月23日(1864年8月24日)に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、薩摩藩勢力の伸張を謀るべくそれに応じた。

8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。

次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。

この間の9月中旬、西郷は大坂の専称寺で勝海舟と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。
10月初旬、御側役・代々小番となり、大島吉之助 から西郷吉之助に改めた。

10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。

24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。
そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分(切腹)を申し入れた。

第二次長州征伐と薩長同盟

慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚した。

大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩などを遊説していたが、3月中旬に上京。

5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。

その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。
9日に大番頭・一身家老組に任命された。

この頃、将軍・徳川家茂は、勅書を無視して、紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。
翌23日、家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。

6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。
しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。
これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。

それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。
また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京した。

この頃、長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。
この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。

9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。

一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるんだ朝廷は同21日、幕府に長州再征の勅許を下した。

慶応2年1月8日(1866年2月22日)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。

その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。
その後、3月4日に小松帯刀・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。

4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが容れられると、5月1日から小松・桂らと藩政改革にあたった。

第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。

高杉晋作の電撃作戦と奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で勝利し、大村益次郎が指揮した山陰口も連戦連勝し、幕府軍は惨敗続きであった。

鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。

幕府は8月1日の小倉口での敗北を機に、休戦の御沙汰書を出してもらいこの戦役を終わらせた。

この間の7月12日、西郷に嫡男・寅太郎が誕生し、9月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された。
しかし病気を理由に大目付役は返上した。

四侯会議

慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩・平戸藩などを遊説させた。
3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。
5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。

薩土密約

5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ。
6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。

16日、西郷と小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。

6月22日、坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らが西郷と会し、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結。

薩摩藩と土佐藩は、西郷を通じて性格の相反する軍事同盟を結ぶこととなる。

大政奉還と王政復古

9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。
9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。

土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。
ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた。

15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。

密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。

12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。

戊辰戦争

慶応3年(1867年)12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。

12月28日、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。

慶応4年1月3日、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦)、1月6日、谷が土佐に到着。
1月9日、乾退助の失脚が解かれ、1月13日、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した。

鳥羽・伏見の戦い

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。
西郷はこの3日には伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認した。

6日、徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去した。
新政府は7日に慶喜追討令を出し、9日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。

東海道先鋒軍参謀

西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、に任じられると、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。
占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した。

3月9日、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し、徳川処分案7ヶ条を示した。
その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。

江戸無血開城

3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。

自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督・有栖川宮に謁見して勝案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た。
江戸へ帰った西郷は4月4日、勅使・橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城明け渡し(無血開城)が行なわれた。

上野戦争

江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。

5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。
5月末、江戸を出帆。

京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。
この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した。

凱旋

北越戦争に赴いた北陸道軍の戦況が思わしくないため西郷の出馬が要請され、7月23日に薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられた。
その後8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。

来て間もない14日、五十嵐川の戦いで負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。
藩の差引の立場から北陸道本営のある新発田には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。

新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。

このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。

この後、庄内を発し、東京・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。

その後の略歴

1869年 明治2年 42歳 ・帰郷して薩摩藩の参与となる
1871年 明治4年 45歳 ・岩倉使節団が視察に出かけた際、筆頭参議として留守を預かる
・廃藩置県
1872年 明治5年 46歳 ・陸軍元帥になる
1873年 明治6年 47歳 ・岩倉使節団が帰国する
・陸軍大将となる
・征韓論争により大久保利通と対立したが敗れ明治政府を辞職し鹿児島へ帰郷する
1874年 明治7年 48歳 ・鹿児島に私学校を設立する
1877年 明治10年 51歳 ・西南戦争にて自決(鹿児島・城山にて)

西南戦争

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦となっている。
1877年(明治10)鹿児島私学校派を中核とする九州の士族が、西郷隆盛(さいごうたかもり)を擁して起こした反政府内戦。

背景

西南戦争の背景には士族の強烈な反政府風潮があった。
廃藩置県後、近代化を急ぐ政府は、秩禄(ちつろく)処分、徴兵制、廃刀令など領主制解体の政策を強行したので、士族の地位と生活が激変し、彼らは封建的特権を奪われて大量に没落した。
しかも、維新の功績に慢心した政府高官は、専制的傾向を帯び、腐敗状況も現れたので、士族の反政府気分は高まった。

1873年の朝鮮使節派遣をめぐる政府分裂(いわゆる明治六年の政変)で西郷隆盛、板垣退助(いたがきたいすけ)らが下野すると、これに続いて鹿児島や高知出身の近衛兵(このえへい)多数が辞職、帰郷し、反政府士族グループの核となった。鹿児島県では、桐野利秋(きりのとしあき)、篠原国幹(しのはらくにもと)、村田新八(むらたしんぱち)らが私学校を組織し、士族の教育、共済にあたった。
県令大山綱良(つなよし)(旧薩摩(さつま)藩士)は、私学校派士族と結び、彼らを県政の要職に任命し、政府の集権政策に抗して独自の経済・社会政策を進めたので、鹿児島県は政府に敵対的な独立国の観を呈した。また、士族の反政府風潮を背景に、74年以来、憲法制定、国会開設を求める自由民権運動が高まり、板垣ら土佐立志社(りっししゃ)士族がその中心となった。
これに対し、政府の大久保利通(おおくぼとしみち)や伊藤博文(ひろぶみ)は、75年の大阪会議で板垣らの入閣を図り西郷派を孤立させようとした。

1876年に入ると、反政府状況はいっそう深刻になった。
地租改正に不満を抱く農民は、茨城、三重、愛知、岐阜、堺(さかい)(現在の大阪府の一部および奈良県)などの各県で大一揆(いっき)を起こし、政府に衝撃を与えた。他面、熊本(神風連(しんぷうれん))、福岡県秋月(あきづき)、山口県萩(はぎ)(前原一誠(まえばらいっせい))など各地の士族は相次いで反乱を起こしたが、彼らは西郷の決起を期待していた。西郷は、好むと好まざるとにかかわらず、士族の反政府運動のシンボル視されるに至った。
このような難局に直面して、政府は鹿児島士族を反政府の拠点とみなし、その掃滅を図って、密偵派遣など内部破壊工作を試みた。

発端

鹿児島に退隠した西郷は、自適の生活に終始し、各地の士族反乱にも呼応せず自重していた。
しかし、政府と鹿児島士族間の緊張が激化すると、彼は、その本意に反して鹿児島士族の反政府運動の先頭に推し挙げられた。
1877年1月、政府は、鹿児島草牟田(そうむた)陸軍火薬局の火薬が私学校派の手に渡るのを警戒し、県庁にも連絡せずにひそかに搬出を試みた。
このことは私学校派を強く刺激し、同月30日夜以後、彼らの一部が、陸軍火薬局ならびに磯(いそ)海軍造船所付属火薬庫を襲って弾薬を奪った。
ここに、政府の挑発的な密偵派遣と相まって、私学校派の怒りは爆発、いまや西郷もこの勢いを抑えることはできなかった。

2月15日、1万3000の鹿児島士族は、政府密偵の中原尚雄(たかお)少警部らが帰郷して西郷暗殺を企てた件の尋問を理由に、西郷を擁して武装上京に立ち上がった。
九州各地の反政府士族も呼応決起した。彼ら鹿児島以外から参戦したものを党薩(とうさつ)諸隊という。
そのなかには、民権派の平川唯一、宮崎八郎(熊本)や増田宋太郎(そうたろう)(中津)らのグループもいた。
西南戦争は武力による自由民権運動の側面を帯びていたといってもよい。

戦況

西郷軍は、2月22日、熊本城にある熊本鎮台を強襲したが、司令長官谷干城(たにかんじょう)以下の守兵は懸命に防御したので、西郷軍は包囲作戦に転じた。
政府は2月19日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を征討総督に、陸軍中将山県有朋(やまがたありとも)、海軍中将川村純義(すみよし)を参軍に任命し、征討軍団を派遣した。
当初政府首脳は、反乱軍に西郷が参加しているかどうか疑っていたが、西郷の従軍が明らかになったので、2月25日、西郷の官位を取り消した。

装備と人員に勝る政府軍は、4月15日、激戦のすえ熊本城の包囲を解くのに成功し、以後攻勢に移った。守勢に回った西郷軍は、日向(ひゅうが)地方に転じて再起を図ったが、6月1日人吉(ひとよし)、7月24日都城(みやこのじょう)、同31日宮崎、佐土原(さどはら)を失い、長井村に追い詰められて解散し、一部が西郷を擁して政府軍の包囲を脱出、鹿児島に帰って城山(しろやま)に籠(こも)った。
9月24日城山も陥落、西郷以下、桐野、村田、池上四郎(いけがみしろう)、辺見十郎太(へんみじゅうろうた)、別府晋介(べっぷしんすけ)らが枕(まくら)を並べて討ち死にし、半年に及ぶ戦闘は終結した。
西郷軍の総兵力は3万余、うち1万3000は私学校派、1万は中途よりの徴募兵、残り1万は党薩諸隊であり、戦死6000前後、戦後斬罪(ざんざい)22を含んで2760余が処罰された。
政府軍の総兵力は5万8600、艦船19隻、戦死6800余であった。

結果

西南戦争は、最大かつ最後の士族反乱であった。
政府はこの反乱を乗り切って権力的基礎を確立した。
他面、自由民権運動は武力闘争にかえて、組織と言論を通じて民衆に働きかける方向に転じた。
また、巨額の西南戦費支出はインフレーションを引き起こし、日本資本主義の原始的蓄積を推し進めた側面も見落としてはならない。

西郷隆盛の名言

・思い切ってやりなさい。責任は私がとる。

・世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。

・小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。

・徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず。

・正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論である。 ※ 僻論(へきろん)とは、偏っていて道理に合わない論のこと

まとめ

勝海舟は西郷を評して、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷隆盛だ」と、言葉を残しています。
また、坂本龍馬は「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響く…」と西郷を評しています。
評する方もすごい人ですが、評された西郷という人物は、わたしたちが想像もできないくらいスケールが大きかったんでしょうね。

参考:ウィキペディア

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