偉人の生き方に学ぶ処世術、大久保利通の履歴書
私心少なく沈着冷静に時勢を読んだ大久保利通
維新の三傑に数えられる大久保利通とは一体どのような人物だったのでしょうか?
今日は大久保利通の人生を辿ってみましょう。
大久保利通は、薩摩藩の下級武士の子として生まれました。
幼なじみに3歳年上の西郷隆盛がいました。
20歳のとき、藩のお家騒動に巻き込まれて父と共に処分を受けますが、許された後は、西郷と共に藩主島津斉彬に登用され、尊王攘夷を唱える若手藩士のリーダー的存在となります。
斉彬が死に、島津久光が実権を握ると、利通は31歳の若さで久光の側近として公武合体策を進める藩の政治に関わるようになります。
幕府の力が低下していくと、奄美から戻ってきた西郷とともに薩長同盟の締結など、藩の政治を倒幕に動かしていきます。
維新が成り、明治新政府では、1871年、41歳のとき、岩倉使節団の副使として欧米を視察します。
ここで、西洋の進んだ技術や文化を見て衝撃を受けました。
※ここが実際に西洋文化に接した大久保と西郷の、決定的な考え方の違いが生まれた原因だったとわたしは思います。
ドイツの首相ビスマルクから国をまとめあげた話を聞き、日本でも西欧に追い付けるのではと思いました。
帰国後は、強い権限を持つ内務卿として富岡製糸場を作るなど、殖産興業による日本の近代化に向けて尽力しました。
一方、利通が欧米視察中に明治政府では、西郷隆盛らが武力で韓国を開国させようとする征韓論を唱えます。
国内の政策を重視する利通らと対立した西郷は、敗れて政府を去ります。
利通は新政府に対する不平士族の乱を鎮める側の立場でしたが、最大かつ最後の反乱は、かつての親友西郷隆盛と戦った西南戦争でした。
武士の世を終わらせ、近代日本の基礎をつくった大久保を、多くの方が、冷静沈着で、思慮深く、洞察力の非常に高い性格の持ち主と評価をしています。
大久保利通略歴
生い立ち
文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の長男として生まれる。
家格は御小姓与と呼ばれる下級藩士。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)移住。
加治屋町の郷中や藩校造士館で西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。
子供の頃は禁忌とされた桜島の火口に石を投げ落としたり温泉で滝水を使った温度調整をいじって温泉客を驚かせたりと、悪戯小僧であった。
武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、学問は郷中のなかでは抜きん出ていた。
天保15年(1844年)に元服し、正助(しょうすけ)と名乗る。
幕末
弘化3年(1846年)より藩の記録所書役助として出仕。
嘉永3年(1850年)のお由羅騒動で父・利世に連座して罷免され謹慎処分となり、貧しい生活を強いられる。
島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。
安政4年(1857年)10月1日、徒目付となる。同年11月、西郷に同伴し熊本に達し長岡監物、津田山三郎らと時事を談ずる。
精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)7月の斉彬の死後は、11月に失脚した西郷に代わり組を率いる。
万延元年(1860年)3月11日、久光と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となる。
同年10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)し、家格も一代新番となる。
文久元年12月15日(1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜る。
元年12月28日、久光の内命により京都に上る。
倒幕・王政復古
文久2年(1862年)、正月より久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。
同年正月14日、前左大臣近衛忠煕、忠房父子に謁して、久光上京、国事周旋を行うことを内々に上陳する。
同年2月1日、近衛父子の書を携えて帰藩する。同月12日、大久保らの進言を受けて久光に召喚された西郷が奄美大島より戻る。
翌13日、小松清廉邸において、西郷らと久光上京に関して打ち合わせる。3月に入り、西郷が先発して村田新八らとともに上京。
同月16日、久光、千人を超える兵を率いて公武合体運動推進のため上京の途に就く。大久保はこれに従った。
慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。
慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。
しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。
武力による新政府樹立を目指すため、薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が三藩盟約を結ぶ。
なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。
10月15日大政奉還。
王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。
明治維新後
慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張する。
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。
明治6年(1873年)に帰国。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。
同年に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。
そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧している。
首謀者の江藤新平ら13人を、法によらない裁判で処刑した。
さらに江藤を梟首しただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にした。
また4月に台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡った。
交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。
また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した。
台湾出兵のあいだの1873年(明治6年)10月9日、当時の日本の紙幣である明治通宝の印刷業者であり、オリエンタル・バンク(東洋銀行)の取引先であったドンドルフ・ナウマンがロンドン駐在の外交官に経営難を訴えて原版など印刷設備を日本に売却したいと申し出、ロンドン本店から横浜支店に設備代の支払請求書が送付されたとき、大久保利通と吉田清成は、横浜支店から大蔵省に送付されるその支払請求書に、支払いを求める2人の書簡を添えさせている。
大久保が目標としていた国家はプロイセン(ドイツ)であるとも、イギリスであるともいわれる。
当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。
また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。
また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
暗殺
明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)にて6人の不平士族に殺害された(紀尾井町事件)]。
享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にある。
なお、この事件は清水谷で起きたにも関わらず「紀尾井坂の変」と呼ばれている。
人物・逸話
仕事ぶり
金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。
そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかった。
政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円(2019年の価値で約2億円)を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。
「わしの国(薩摩)のものは政治には役に立ちません、戦にはいいが」と語り、出身藩に関わらず能力が高い者を登用した。
伊地知貞馨のようにこれまで親交を結んでいた者であっても、不正が明らかになった場合は容赦なく切り捨て、公正無私に取り扱った。
寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人は少なかった。
「人斬り半次郎」の異名を持つ桐野利秋も大久保に対してまともに話ができず、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしても大久保に一瞥されただけで気迫に呑まれていた程。
大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保没後の内務省で後任の内務卿・伊藤博文の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中居が出入りするようになるなどの例を挙げ、「すべてが奢侈に流れ堕落した」と嘆いている。
今日でいう風光関係の問題にも関心があった。
明治6年(1873年)に五代友厚に浜寺公園へ案内された大久保は、堺県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ。
税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。
なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。
技能
畳を回すという技能を持っていた。
薩長との会合の際、長州代表主催者、周布政之助を快く思っていなかった堀小太郎(後の伊地知貞馨)が言葉じりを捕らえ嘲った。
空気が非常に重くなったが、さらに堀は周布を嘲り続けた。
怒った周布は「芸を見せる」と言い抜刀し踊り始めた。
堀を斬ることを察した、長州藩の藩士が堀との間に入り抜刀して踊り止めようとし、空気に緊張感がましたその時、大久保は畳を一枚ひっぺがえし、畳を回すという芸を見せた。
これで空気が弛緩し、ことなきを得た。
これはのちの世で幕末の鴻門の会と呼ばれている。
嗜好
家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。
出勤前のわずか10分か15分の間を、唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。
また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子どもたちが争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。
平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。
大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。
趣味は囲碁。碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述もある。
また囲碁に関しては負けず嫌いで、負けたときは露骨に機嫌を悪くすることもあった。
大隈重信の大久保談
「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」
「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。
大久保は碁に負けると厭な顔をするけれども、決してその場では腹を立てない。
併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。
ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」
本因坊秀栄 の大久保談
「大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかった」
伊藤博文の大久保談
「公の一番好きなのは碁じゃ。余程好きで能くやって居った。詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」
ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。
また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた(そうしなければならないほど、年中煙草を吸っていた)。
茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。
漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。
写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、これを好んだため多くの肖像写真が残っている。
青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。
また頭髪をポマードでセットしていた。
頭頂部に大きな禿があり、それを髪で隠していたため、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。
明治8年(1875年)から1年かけて、麹町三年町(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友の税所篤からの借金で賄ったとされる。
後にこの邸はベルギー公使館となった)。
当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。
また、これとは別に高輪に純和風の別邸を所有していた。
士族反乱~最期
征韓論で対立した江藤新平と確執があり、佐賀の乱で江藤が裁判にかけられた際には日記に「江東(ママ)陳述曖昧実ニ笑止千万人物推而知ラレタリ」、
死罪判決が出た際には「江東(ママ)醜体笑止なり、今日は都合よく済み大安心」と意図的に名字の名を変え、江藤への罵倒ともとれる言葉を記している。
このことから「江藤を死罪にした裁判長の河野敏鎌は大久保から1,000円で買収された」「上京していた江藤の弟・江藤源作を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」
など当時から現在に至るまで様々な風説を生み出している。
萩の乱の一報を千坂高雅から受けると、大久保は「これ(電報)を伊藤(博文)参議の所へ持っていって、どうか木戸(孝允)さんへお渡し下さいと言ってくれ」と送り出した。
意味がわからぬまま千坂が持っていくと伊藤が涙を流したため訳を聞くと、(萩の乱の首謀者である)前原一誠は木戸と伊藤が参議に推挙したが、
前原について聞き及ぶところがあった大久保が難渋を示したところ、木戸が天下の志士を疑ったとして立腹したという経緯があり、
木戸の面子を立てようとする大久保の配慮であった。
鹿児島が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、
また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。
一方で、「あの男のことだから進退去就には困っているだろう」として、勅使を立てて明治天皇の意向を伝えて挙兵を防ごうとし、
その意向を受けて西郷の縁戚川村純義が会見を試みたが、実現しなかった。
周囲の者達が西郷が乱に与するに違いないと伝えても、大久保は最後まで西郷を信じて疑わなかったが、
いよいよ西郷が反乱軍を率いて鹿児島を出立したという確報や証拠を突きつけられ、「そうであったか」と言って涙を流した。
大久保は西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。
西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いた。
西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだりもしていた。
また暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとされる。
明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。
よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。
それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。
明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語った。
紀尾井坂の変
大久保利通の暗殺理由と暗殺犯
斬奸状(ざんかんじょう)に書かれていた事
斬奸状とは、悪者を斬り殺す理由が書かれた文章です。
この斬奸状を、大久保利通を暗殺した時に犯人は持参していました。
・国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
・不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。
これらの内容を見ると、暗殺を行なった者は、大久保利通が、自分の為に国を私物化し、好き勝手やっている独裁者と見ていた為、暗殺したと思われます。
実行犯
この暗殺事件の実行犯は、以下の6名です。
・島田一郎(主犯)
・長連豪
・杉本乙菊
・脇田巧一
・杉村文一
・浅井寿篤
日本政府に不満を抱いていた士族です。士族とは元武士の人達。主犯とされているのが、島田一郎です。
当時士族達は明治政府に不満を募らせていた。各地で士族の反乱が起こっていた。
(神風連の乱や、秋月の乱、萩の乱、そして西郷隆盛が決起した西南戦争)
元々武士というのは、藩に仕えて給料を貰っていた、この藩の借金や士族への給料の支払いを明治政府が引き継いだのですが、この歳出がとても大きく負担となった為、特権階級だった、士族を廃止し、お金も払わないとした。
そのような社会背景もあり、この暗殺者達は、不満を持っていた。しかし、各地で起こった乱も鎮圧され、うまくいかない事がら、要人暗殺に切り替えられ、そして狙われたのが大久保利通です。
暗殺の詳細
暗殺が行われたのは、5月14日、午前8時頃、大久保利通は自宅を出発した。
大久保の自宅は、麹町区(現在の千代田区)三年町裏霞ヶ関にあった。
明治天皇に謁見するために、赤坂仮皇居に向かった。
8時30分頃、その時は訪れた。
暗殺現場
紀尾井町清水谷(紀尾井坂の付近、現在の衆議院清水谷宿舎前)で突然、6人の男が大久保利通を乗せた馬車を襲った。
男達はまず、馬の脚を刀で切った。そして馬車の御者を刺殺した。
そして、馬車の中の大久保利通を引きずり出した。大久保は「無礼者!」と叫んだ。
暗殺者達は、容赦なく大久保に刀を振るい惨殺した。
大久保の亡骸に残された刀傷は、16箇所に及んで、殆どが頭部に集中していたといいます。
頭は割れて、脳が飛び出ていたそうで、首に突き立てた刀は、地面に突き刺さっていたといいます。
犯人のその後
犯人達は、大久保の罪五条と、他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊東博文、黒田清隆、川路利良)の罪が書かれた斬奸状を持って自首した。
そして、同年の7月27日に判決を言い渡され、即日処刑された。
大久保神社(郡山市安積町)
大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にあり、地元の人々によって「大久保様の水祭り」が毎年9月1日に執行されている。
地元鹿児島では長らく「西郷どんの敵」とされ、彫刻家の中村晋也が制作した銅像が建てられたのは徐々に再評価が高まってもいた昭和54年(1979年)の西南戦争百周年の機会による。
西郷隆盛の大久保評価
「もし一個の家屋に譬ふれば、われは築造することにおいて、遥に甲東(大久保)に優って居ることを信ずる。
然し、既に之を建築し終りて、造作を施し室内の装飾を為し一家の観を備ふるまでに整備することに於ては、実に甲東に天稟あって、我等の如き者は雪隠(便所)の隅を修理するも尚ほ足らないのである。
然しまた一度之を破壊することに至っては甲東も乃公に及ばない」
「大久保は予の畏友で実に予の手駒である。予若し事に死することあらば、予に代わって起つべきは大久保である」
長州閥の総帥である木戸孝允とは、維新後は政治的に対立することが多かったが、公人としては互いに認め合っていた。
木戸は大久保に多くの不快を持ちながらも、政治家としての大久保については「大久保先生の人物には毫も間然するところこれ無く敬服つかまつり候」と評価し、大久保も参議を辞任した木戸の慰留に何度も努めるなど、政治的な同僚としての木戸を強く必要とした。
松平春嶽の大久保評価
「大久保利通は、古今未曾有の英雄と申すべし。威望凛々霜の如く、徳望は自然に備へたり。
力量に至っては、世界第一ならん。余が大久保をかくのごとく稱讃するは、他人の稱讃とは違へり。
支那の談判、江藤の討伐、其の他公の事業に種々あれども、余の見る所は御維新也。(中略)日本全国の人心を鎮定して、その方向を定む。
皆大久保一人の全国を維持するに依り、維新の功業は大久保を以て第一とするゆえなり。
御一新の功労に、智勇仁あり。智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷也。此の三人なくんば、如何に三条、岩倉の精心あるも貫徹せざるべし。
大久保は豪傑なれども、どこ迄も朝廷を輔賛するの心ありて、倒れて止むの気象也。余の見る所にては大久保、木戸、西郷、廣澤、この四人なくんば御一新は出来まじ」
勝海舟の大久保評価
「情実の間を踏み切って、ものの見事にやりのけるのは、そうさなアー大久保だろうよ。大久保のほかにはあるまいよ。
だがね、大久保という男はあんまり功名を急ぐ欠点があるから、折々やりそこないがあったけれど、あの男のように思い切った果断に富んだ者はマアー珍しいだよ。
それだから情実の相撲取りをする今の世の中には、ああいう男が是非とも入用ださ」
大隈重信の大久保評価
大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。
さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。
「大久保は辛抱強い人で、喜怒哀楽顔色に現はさない。寡言沈黙、常に他人の説を聴いて居る、『宜かろふ』と言ったら最後、必ず断行する。
決して変更しない、百難を排しても遂行すると云ふのが特色であった。(中略)大久保は一見陰湿な方で、且つ武骨無意気な風であった」
「彼の頭脳が明晰で、その判断が嘗て正鵠をあやまらなかったのは、畢竟この沈着の態度を失わなかったところに基づいている。
或る場合には、彼の性格は如何にも頑固に見えて、甚だ才略に乏しいように受け取られたが、之れ畢竟極めて強固なる意志の力と執着力の甚だ猛烈なるものありしことと、赫々たる政治的熱心の絶えず活動していた結果である。
假令彼に対する反対の声が、四方に起っても、彼は毫も恐れず、騒がず、怨まず、決して愚痴も零さなかったのである。(中略)決して彼は機敏な人ではなかった。
併し全く自らを恃む人であって、常人が狐疑逡巡して居る間に、どしどし断行して行ったのであるから、その執る仕事には非常な成績が挙った。
素より彼は、意思の人であって、感情の人ではなかった。
その冷ややかなることは、鉄の如くであって、毫も温かみのない人のように見えた。或場合には、甚しく保守的の思想を表わすことがあったが、さりとて頑冥な保守党の因循家ではなかった。
例えば、学者の説を聞いても容易に同意しない、黙考し再考し三考するという風で、沈思黙考の結果善いと確信したならば、彼は猛然進んで毫も余力を残さないという遣方であったから、彼の進行の前路に立ち塞がり得る者は、殆ど無かった」
「大久保は意思の代表的人物であり、木戸は感情の代表的人物である。木戸は頴敏で磊落な才子の方で、大久保は堅剛の君子人である」
「殊に彼の偉大であった一つは、彼が斯の藩閥的関係を以て、身を立てたるにも拘らず、殆んど藩閥的偏見に超脱していた点である。
如何にも同藩の者を多く採用したことはあるが、之れとて其間に偏見のあった訳では毫もない。
この大見識は彼の人物を見る上に就て、最も深く注意すべき点である」
「大久保公は、沈着で喜怒色に顕れない。知らぬ人は近づく能はず、知る人も狎るるを得ずという風で、木戸公はリベラル、大久保公はコンサバチーブ、両公相俟って大政維新を成就し、維新後の難局を処理して、開国進取の基を開かれた」
大久保利通の名言
・ 彼は彼、我は我でいこうよ
・ 今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず
・ この難を逃げ候こと本懐にあらず
・ 国家創業の折には、難事は常に起こるものである。
そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。
・ 堅忍不抜
※ 座右の銘: 意志が強く、辛いこともじっと耐え忍んで心を動かさないこと
・ 目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。
そういうものを振り切って、前に進む。
・ おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。
強か日本が…
※ 西郷隆盛死亡の報を受け、号泣しながら発した言葉
・ 自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない
・ 為政清明
※ 座右の銘: 政治を行うものは清らかでなければならない
参考:ウィキペディア
追記
大久保の評価は西郷の言ったことが的をえているようです。
西郷は大久保を評しこう云っています。
「もし家を建てるとすれば、大久保よりおいどんが優れている、しかし、その家を人が住めるように建具を入れたり家財を整えたり装飾したり整備するのは大久保の才能には到底かなわない、おいどんなどはトイレの隅を修理することさえ無理な相談だ。しかし、その家を破壊することに至っては彼はおいどんに遠く及ばない。」
西南戦争を起こるがママに任せたのは、西郷の最後の仕事だったのかもしれません。新政府という器はできた。後は大久保が立派にやってくれるだろう。おれは政府が始末に困っている不平分子ともども死んでゆく。何しろ壊すのは得意だからな。大久保よ頼んだぞ…
西郷死亡の報せを聞くと大久保は号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回ってい「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたと言います。
西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだりもしていたとあり。
また暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとされる。
どちらも畳の上では死ねなかったのですが、もしこの時代、この二人がいなければ、維新も大きく遅れ、違った日本ができていることは想像できます。ときは弱肉教職の時代です。欧米列強は日本をどのように料理するか狙っていたに相違ありません。
TV、ラジオ、ましてインターネットも存在しなかった時代、西郷や大久保を初め、あまたの英傑が草莽崛起したことを思うと、まさに天の采配と思うのです。
大久保や西郷が秀吉、信長と大きく違うのは、全く私欲がないという事です。新しい国家樹立のために命を捧げる…
今の世、このように生きている人(政治家)が果たしているのでしょうか?
維新なんて名前だけ使われてもねぇ…