偉人の生き方に学ぶ処世術、ナポレオン・ボナパルトの履歴書

「余の辞書に不可能という文字はない」
これはあまりにも有名な言葉です。
この言葉を発した人物は 、瀕死のフランスを救った英雄であり独裁者でもあった皇帝ナポレオン・ボナパルトのです。
ナポレオンは、革命後の差し迫った社会情勢もあって、国民から絶大な支持を受けていました。
民衆は、疲れきったフランスを蘇らせてくれる英雄としてナポレオンに夢を託したのです。
その結果、1804年、ナポレオンはついに皇帝の地位まで上り詰めます。
若干24歳の砲術の下士官だったナポレオンは、たったの10年で皇帝に上り詰めてしまうのです。
しかし、地位を確立したナポレオンはその後、その地位ゆえの人生は波乱万丈そのものでした。
ワーテルローの大敗北から彼の人生が狂い始めます。
軍人でもある彼の生き方には、現代人のわたしたちにはまねができない部分が多々ありますが、彼の足跡を薄々でも辿ることによって、僅かにでも彼の尋常に触れることでもできれば、何かの参考にはなります。
ではナポレオン・ボナパルトの履歴を辿り、フランス皇帝にまで登りつめ、そして転落していった理由を探してみましょう
後編の掲げたね異言の一部にそのヒントがあるかもしれません。
天国から地獄へ転落したナポレオンの人生
生い立ち
1769年、地中海に浮かぶコルシカ島において、父カルロと母マリアの間に、12人の兄弟(4人は夭折)の4番目として誕生。
1794年頃より、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名。
1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。
1784年にパリの陸軍士官学校に入学。砲兵科。
大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。
卒業試験の成績は58人中42位だったが、わずか11か月(開校以来の最短記録)で必要な全課程を修了したことを考えれば、非常に優秀な成績と言える(通常の在籍期間が4年前後)。
1785年に砲兵士官として任官。
1789年、フランス革命が勃発たが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心だった。
1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。
ナポレオンはフランス軍のカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征。
前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、少佐に昇格。
1794年、イタリア方面軍の砲兵司令官となったが、イタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監、降格処分。
その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために予備役とされる。
1795年、パリにおいて王党派の蜂起(反乱)が起りナポレオンを副官として登用した。
首都の市街地で一般市民に対して大砲(広範囲に被害が及ぶぶどう弾)を撃ちて鎮圧に成功、師団陸将(中将相当に昇進。
若き英雄
1796年、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。
同年、総裁政府のイタリア方面軍の司令官に抜擢される。
フランス革命戦争が欧州各国に波及、総裁政府のオーストリアを包囲作戦のおりイタリア側からの攻撃を守備。
ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝。
1797年4月にはオーストリアの帝都ウィーンへと迫り、10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。
これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得た。
このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。
フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。
12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられる。
1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利。
しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗、ナポレオン軍はエジプトに孤立。
12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。
1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まる。
ナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ帰還。
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。
11月18日クーデタを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握る。
もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性があった。
1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。
さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布。
1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。
ハイチ革命
1804年5月、国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。
皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。
1804年12月2日には「フランス人民の皇帝」としての戴冠式が行われた(フランス第一帝政)。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。
絶頂期
1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結。
1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。
ナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。
海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦役でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。
フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。
ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、多額の賠償金と領土の割譲を得て、第三次対仏大同盟は崩壊した。
イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受けて翌年に没した。
ちなみに凱旋門はこの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じ、完成はナポレオン死後の1836年のことである。
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成。
これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領。
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡。
ロシア、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧。
これらのことにより、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。
なおナポレオン失脚後にほぼ同じ参加国でオーストリアを議長国としてドイツ連邦が結成された。
1807年2月、アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦い(英語版)は、猛雪や情報漏れにより苦戦し辛勝。
同6月のフリートラントの戦いではナポレオン軍は大勝。
ナポレオンの勢力はイギリスとスウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧。
イタリア、ドイツ西南部諸国、ポーランドはフランス帝国の属国に。
ドイツ系の残る二大国のオーストリアとプロイセンも従属的な同盟国となった。
このころがナポレオンの絶頂期と評される。
帝国崩壊へ
1808年5月、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し(半島戦争)、ナポリ王に就けていた兄のジョゼフを今度はスペイン王に就けた。
ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画(『マドリード、1808年5月3日』)は有名である。
1808年7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。
皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北。
8月にイギリスがポルトガルとの英葡永久同盟により参戦し、半島戦争に発展した。
オーストリア、イギリスと第五次対仏大同盟を結成。
4月のエックミュールの戦い(英語版)ではナポレオンが勝利し、5月にはオーストリア軍に敗れ、ジャン・ランヌ元帥が戦死。
続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利。
そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅。
この和約のあと、皇后ジョゼフィーヌをと離別、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。
1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。
大陸封鎖令のよりイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮。
1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。
これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。
そして1812年、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。
これがロシア遠征であり、ロシア側では祖国戦争と呼ばれる。
ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフである。
老獪な彼は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用し、会戦を避けてひたすら後退。
フランス軍の進路にある物資や食糧は全て焼き払う焦土戦術で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。
荒涼としたロシアの原野を進むフランス軍は兵站に苦しみ、脱落者が続出、モスクワ前面のボロジノの戦いでは、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。
食糧を求めナポレオンはついにモスクワへ入城するも、ロシア兵が各所に放火、モスクワは3日間燃え続けた大火で焼け野原と化した。
ロシアの冬を目前にして、物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点で遠征の失敗を悟る。
フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃。
コサックの襲撃と冬将軍とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。
敗報の届いたパリではクーデター事件が発生した(未遂に終わり、首謀者のマレ将軍は銃殺)。
ナポレオンはクーデター発生の報を聞き、仏軍の撤退指揮を後任に任せ、一足先に脱出帰国する。
この途上でナポレオンは大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世のようにはなりたくない」と漏らしたという。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。
1813年春、ナポレオンはプロイセン・ロシアなどの反仏同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦いに勝って休戦に持ち込む。
10月のライプツィヒの戦いでナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰る。
1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。
フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク(ドイツ語版)、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万人、北西にはベルナドットのスウェーデン軍16万人、南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万人の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。
一方ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。
3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落。
ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放。
この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。
4月12日、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺を図ったとされている。
ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められなかった。
また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末にブルボン家が後継に選ばれた(フランス復古王政)。
百日天下とその後
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。
さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、苦労してパリに戻って復位を成し遂げる。
ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。
そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。
しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの「百日天下」は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカ合衆国への亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。
彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋のセントヘレナ島に幽閉した。
セントヘレナのナポレオン
ナポレオンはベルトラン、モントロン、グールゴ(フランス語版)、ラス・カーズらごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。
高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたが、その中でもナポレオンは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した。
これらは彼の人生のみならず彼の世界観、歴史観、人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ローの無礼な振る舞いに苦しめられた。
彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した
また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。
ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。
そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で欧州全体が動揺する中、1821年5月5日に死去する。51歳でした。
彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された)。
その遺体は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
最期の言葉は「フランス!…軍隊!…軍隊のかしらに…ジョゼフィーヌ!」だった。
死因をめぐる論議
ヒ素(砒素)による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体を掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったことがある(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)
死の直後に発表された胃癌説(病死説)は公式には今まで一度も覆されたことはなく[要出典]、最近の研究でも胃癌を支持するものがある。
特に1817年以降、体調は急激に悪化している。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった。
そのほか、20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させたという説もある。
若いころは精神力でカバーできていたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの体を蝕んでいたという。
また孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるともいう。
総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。
ヒ素毒殺説は有名であるため誤解されやすいが、フランスでの公式見解は一貫して胃癌説である。
ナポレオンの年表
西暦 | 月日 | 満年齢 | 出来事 |
1769 | 0歳 | ・コルシカ島・アジャクシオにて生まれる(ナポレオン・ボナパルト) | |
1779 | 10歳 | ・ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学 | |
1784 | 15歳 | ・パリの陸軍士官学校・砲兵科に入学 | |
1785 | 16歳 | ・砲兵士官として任官 | |
1789 | 20歳 | ・フランス革命が勃発 | |
1792 | 23歳 | ・アジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが親仏派である一家は親英派に追放される | |
・船で脱出しマルセイユに移住する(商家の娘・デジレと婚約、「ボーケールの晩餐」を著す) | |||
1793 | 24歳 | ・原隊に復帰し、貴族士官の亡命という恩恵で大尉に昇進 | |
・敵艦隊への大砲作戦が成功、准将へ昇進し一躍フランス軍の英雄となる | |||
1794 | 25歳 | ・クーデーターでロベスピエールが処刑され、ナポレオンも逮捕・収監される | |
1795 | 26歳 | ・ヴァンデミエールの反乱で副官として登用され市街地を大砲で鎮圧し将軍に昇進する | |
・国内軍司令官となり「ヴァンデミエール将軍」と呼ばれる | |||
1796 | 27歳 | ・デジレとの婚約を反故にしジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚、イタリア方面軍司令官に就任 | |
1797 | 10月 | 28歳 | ・オーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結ぶ(第一次対仏大同盟が崩壊) |
12月 | ・パリへ帰還すると熱狂的な歓迎をうける | ||
1798 | 7月 | 29歳 | ・ナポレオン軍がエジプトに上陸、ピラミッドの戦いで勝利しカイロに入城 |
12月 | ・イギリス主導で第二次対仏大同盟が結成されフランス本国が危機に陥る | ||
1799 | 30歳 | ・オーストリアがイタリアを奪還、これを知り自軍をエジプトに残し側近とフランスへ戻る | |
11月 | ・ブリュメールのクーデターを起こし統領政府を樹立、第一統領(第一執政)となる | ||
1800 | 6月14日 | 31歳 | ・マレンゴの戦いでオーストリア軍に劇的勝利、フランス銀行設立 |
1801 | 2月 | 32歳 | ・オーストリアとの和約(リュネヴィルの和約)で第二次対仏大同盟が崩壊、政教条約締結 |
1802 | 3月 | 33歳 | ・アミアンの和約、レジオンドール勲章を創設 |
8月2日 | ・憲法改定で自らを終身統領(終身執政)と規定した | ||
1803 | 11月 | 34歳 | ・植民地のサン=ドマングでフランス軍が大敗 |
1804 | 1月1日 | 35歳 | ・ハイチ革命でサン=ドマングがハイチ共和国として独立 |
3月 | ・王族のルイ・アントワーヌを処刑 | ||
・フランス民法典(ナポレオン法典)を公布 | |||
12月2日 | ・フランス人民の皇帝に即位 | ||
1805 | 36歳 | ・イギリスはオーストリア・ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成 | |
10月 | ・トラファルガーの海戦でイギリス海軍に完敗 | ||
12月2日 | ・アウステルリッツの戦い、オーストリアとプレスブルク条約締結で第三次対仏大同盟が崩壊 | ||
1806 | 37歳 | ・凱旋門の建築を命じる | |
10月 | ・ロシアのアレクサンドル1世が中心となり第四次大仏大同盟を結成 | ||
・イエナの戦い、アウェルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝しベルリンを占領 | |||
・プロイセン国王・ヴィルヘルム3世が東プロイセンへ逃亡しヨーロッパ中央を制圧 | |||
・ライン同盟でドイツを保護国化し、フランツ2世の退位で神聖ローマ帝国は消滅する | |||
11月 | ・イギリスへの対抗策として大陸封鎖令を出す | ||
1807 | 2月 | 38歳 | ・アイウラの戦い |
6月 | ・ハイルスベルクの戦い、フリートラントの戦い、ティルジット条約 | ||
1808 | 5月 | 39歳 | ・スペイン独立戦争が勃発 |
7月 | ・スペイン・ゲリラ連合軍にフランス軍のデュポン将軍が降伏(ナポレオン陸上で初の敗北) | ||
1809 | 40歳 | ・オーストリアがイギリスと第五次対仏大同盟を結成する | |
5月 | ・アスペルン・エスリンクの戦いでオーストリア軍に敗れる | ||
7月 | ・ヴァグラムの戦いで激戦を制す、第五次対仏大同盟が消滅 | ||
1810 | 41歳 | ・皇后ジョゼフィーヌと離別し、オーストリア皇女・マリ・ルイーズと再婚 | |
1811 | 42歳 | ・王子、ナポレオン2世が誕生、ローマ王の地位に就ける | |
1812 | 43歳 | ・ロシア遠征を決行するが冬将軍にも阻まれ大敗を喫する | |
・大敗を見たプロイセンが呼びかけ第六次対仏大同盟が結成される | |||
1813 | 44歳 | ・リュッツェンの戦い、バウツェンの戦いに勝利し休戦に持ち込む | |
・ドレスデンの戦いでは同盟軍に勝利するがクルムの戦いで包囲され降伏 | |||
10月 | ・ライプツィヒの戦いで対仏同盟軍に包囲され大敗、フランスへ退却する | ||
1814 | 3月31日 | 45歳 | ・パリ陥落 |
4月4日 | ・将軍連の反乱で無条件に退位させられる | ||
4月16日 | ・フォンテーヌブロー条約の締結 | ||
・地中海のコルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放される | |||
・ウィーン会議、後継にはブルボン家が選ばれる(王政復古) | |||
1815 | 46歳 | ・エルバ島を脱出し復位、自由主義的な新憲法を発布するが、ワールテローの戦いで完敗(百日天下の終焉) | |
・アメリカへの亡命を断念しイギリスの軍艦に投降、南太平洋の孤島セントヘレナ島に幽閉された | |||
1821 | 51歳 | ・死去 |
ナポレオン・ボナパルトの名言
・お前がいつの日か出会う禍は、お前がおろそかにしたある時間の報いだ。
・じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め。
・人生という試合で最も重要なのは、休憩時間の得点である。
・戦術とは、一点に全ての力をふるうことである。
・リーダーとは「希望を配る人」のことだ。
・一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れにまさる。
・会議を重ねすぎると、いつの時代にも起こったことが起こる。
すなわち、ついには最悪の策が採られるということである。
・最悪の策とは、ほとんど常に、もっとも臆病な策である。
・勝利は、わが迅速果敢な行動にあり。
・勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる。
・不可能は、小心者の幻影であり、権力者の無能の証であり、卑怯者の避難所である。
・有能の士は、どんな足枷をはめられていようとも飛躍する。
・重大な状況において、ほんのちょっとしたことが、最も大きな出来事をつねに決定する。
・状況?何が状況だ。俺が状況を作るのだ。
・戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常に敗れる。
・戦争においては、一つの大きな失敗があると、常に誰かが大きな罪ありとされる。
・指揮の統一は戦争において最も重要なものである。
二つの軍隊は決して同じ舞台の上におかれてはならない。
・兵法に複雑な策略などはいらない。
最も単純なものが最良なのだ。
偉大な将軍達が間違いを犯してしまうのは、難しい戦略を立て、賢く振る舞おうとするからだ。
・決して落胆しないこと。
それが将軍としての第一の素質である。
・最も大きな危険は、勝利の瞬間にある。
・私は何事も最悪の事態を想定することから始める。
・我輩の辞書に不可能という文字はない。
・私はつねに、ニ年先のことを考えて生きている。
・欲しいものは何でも私に言うがいい。
ただし時間以外だ。
参考:ウィキペディア