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偉人の生き方に学ぶ処世術、織田信長の履歴書

tachibanaya 12か月 ago

織田信長の肖像

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戦国時代の天下第一の英雄は織田信長でしょうね、
イメージは、強く冷酷で斬新なアイディアの持ち主で、強運の持ち主です。

戦国時代は日本中が群雄割拠し、明日の命も保証できなかった時代です。
その中で生き残ること自体が如何に大変だったか!

天下をほぼ手中にした、強運の持ち主だった信長でさえ、何度死を覚悟したことでしょう。

桶狭間の戦いでは2万5000対3000という圧倒的な不利な状況で勝利したことには驚嘆しかありません。

またその信長が、家臣の裏切りにより天下統一目前で、あっさりこの世を去ったこともなんか意味があるような気がします。

1573(天正元)年、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は、毛利氏の使僧(しそう)として、毛利氏を頼ってきていた足利義昭の処遇について信長と協議、このときの交渉内容を輝元の家臣に報告した際の記述です。

「信長の代、五年三年は持たるべく候(そうろう)。明年辺(あたり)は公家などに成らるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候」と、9年後の「本能寺の変」を予見したかの意見を述べています。

成功の原因も、失敗の原因も信長の足跡から感じ取れるかと思います。繁栄と滅亡は背中合わせだったという事です。信長の生きざまから、なにかわたしたちが世を渡るヒントが一つでも見つかれば幸いです。

Contents
  1. 典型的な繁栄即滅亡だった信長の足跡
    • 信長の概要
    • 少年期
    • 濃姫と結婚
    • 桶狭間の戦い
    • 美濃斎藤氏と足利義昭
    • 足利幕府再興
    • 伊勢侵攻
    • 第一次信長包囲網
    • 第二次信長包囲網
    • 足利義昭の没落
    • 朝倉・浅井氏の滅亡
    • 長島一向一揆の制圧
    • 長篠の戦い
    • 右近衛大将就任
    • 信長後継者任命
    • 第三次信長包囲網
    • 織田右府
    • 中国侵攻
    • 天正7年の政治状況
    • 大坂本願寺との講和
    • 天下静謐
    • 高野山包囲
    • 甲州征伐
    • 三職推任問題
    • 本能寺の変
    • 宣教師ルイス・フロイス人物評
    • 信長分析
      • 残虐性
      • 奇行
      • 家臣の扱い
      • 信仰
      • 武芸
      • 趣味
    • 織田信長の名言

典型的な繁栄即滅亡だった信長の足跡

信長の概要

・生誕 天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日、先発グレゴリオ暦1534年7月3日)
・死没 天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日、先発グレゴリオ暦1582年7月1日)
・別名 通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府
・戒名 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
・墓所 本能寺(京都市中京区)
・官位 従三位・権大納言、右近衛大将
正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位
贈従一位・太政大臣、贈正一位

少年期

天文3年(1534年)5月、尾張国の戦国大名・織田信秀と土田政久の娘の間に嫡男として誕生。
幼名は吉法師(きっぽうし)。

信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。
そして、尾張国内において勢力を急拡大させていた。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する。
天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった。

濃姫と結婚

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚する。

1552年3月、父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる。
信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称する。

天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を示す。
信長は萱津の戦いで勝利し、これ以後、清洲方との戦いが続くこととなる。

天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害。
同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見。
その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。

天文23年(1554年)、村木城の戦いで今川勢を破った。

清洲の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって滅亡。
義父・斎藤道三の死す。

最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵。
同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い)。

永禄元年(1558年)に信勝は再び謀反。
この時、信勝を見限った柴田勝家からの密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害。

永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見。
これは、すでに足利将軍家による武家秩序が崩壊する危機感が高まっており、その状況を信長自らが確認する意図があったとされる。

桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。
駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった。

織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった。
今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣。
信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った[(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退。
これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。
両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

永禄8年(1565年)[注釈 29]、信長は犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成。
さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた。

美濃斎藤氏と足利義昭

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。

一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、三好義継・松永久通らが、将軍・足利義輝を殺害(永禄の変)。

義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[。
義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた。

これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束。
永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた。

井ノ口を岐阜と改称(『信長公記』)。

同年11月、印文「天下布武」の朱印を使用しはじめる。
この印判の「天下」は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられている。

室町幕府再興の意志を込めたものであったが、11月9日に、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒め、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。

永禄11年(1568年)7月義昭は同月13日に一乗谷を出て、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見。

永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始。

9月25日に大津まで進軍すると、三好三人衆、岩成友通、細川昭元、三好長逸、篠原長房も城を放棄し、唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏。

信長の上洛は、京都やその周辺の人々は信長を実力者とは見ておらず、義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。

信長、足利義昭を第15代将軍に擁立。

足利幕府再興

永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃(本圀寺の変)。
細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、敗退。

これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所を築いた。
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」と伝えられたが、信長は無視した。

伊勢侵攻

永禄10年(1567年)、信長は北伊勢に攻め寄せ、滝川一益をその地に配した。
永禄11年、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を、長野氏に弟の織田信良(信包)を養子とさせ、北伊勢八郡の支配を固めた。

第一次信長包囲網

元亀元年(1570年)4月、朝倉攻め開始するが浅井氏離反にて挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退。
殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。

6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。
並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

8月、信長は三好三人衆を討つべく出陣、が、脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵(野田城・福島城の戦い)。
さらに、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻。

伊勢国の門徒の一揆(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興が自害。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦、ついで阿波から来た篠原長房と講和。
そして正親町天皇の勅命を仰ぎ、12月13日、浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱した。

第二次信長包囲網

元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た。

5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣、攻めあぐね撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死。

同年9月、敵対する比叡山延暦寺を焼き討ち(比叡山焼き討ち)。

甲斐国の武田信玄、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始。

この頃、信長は足利義昭をのとりなしで上杉、武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。

元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対。

7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)の初陣。
この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返している。
が、以後の戦況は織田軍有利に展開した。

11月14日、織田方であった岩村城、武田方に占拠された(岩村城の戦い)。
徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。
これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻、2月に野田城を攻略(野田城の戦い)。

こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対。

信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った。
義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に和睦。

武田軍は信玄の病状悪化により撤退を開始、4月12日に信玄病死。

足利義昭の没落

元亀4年7月、義昭は再び挙兵して、槇島城に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放。
通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。

信長は「天下」主催者としての地位を得て、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている。
義昭はその後も将軍の地位に留まったまま、各地を経て備後国鞆へ移り、毛利輝元の庇護を受ける。

幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している。
その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。
これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった。

義昭の追放後、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、7月28日にはこれを実現させた。

朝倉・浅井氏の滅亡

天正元年(1573年)8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征の内応により、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。
山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。

10日に越前から朝倉軍が救援を信長自身が奇襲して撃破。
大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。

諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、ここに朝倉氏の滅亡となる。

翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に浅井久政が自刃。
28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害。

信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。
なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に進軍。

織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る。

11月に、足利義昭は、三好義継の居城・若江城を離れ、紀伊国へと退去。
同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始。
義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害。
12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏。

天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が殺された。

さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻。
信長はこれを迎撃しようと3万の兵で出陣したが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退。
明知年譜によると、山縣昌景の別動隊6000人の追撃を受け、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長が瀬戸際まで追い詰められる場面もあったという。

また、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した。
※蘭奢待/蘭麝待(らんじゃたい)は、東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる。

長島一向一揆の制圧

7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲。
抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる。

9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた。
これは、信長の「不意討ち」と表現される事があるが、一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある。
一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた。

これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。
この戦によって長島を占領した。

長篠の戦い

天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。
しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。

その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた。
一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した。
織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという。

5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。

信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた。
この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した。
武田方は有力武将の多くを失う。

信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている。

7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。
天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた。

一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国に対し、8月に信長は行軍して平定し、一揆勢を多数殺害した。
信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた。

この越前一向一揆の殲滅と、これに先立つ長島一向一揆の殲滅は大坂本願寺に対する圧力となり、信長が本願寺を赦免する方針をとったため、10月には信長と本願寺との和議が成立した。
これにより、信長は一時的に天下静謐を達成することとなった。

右近衛大将就任

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる。
さらに11月7日には右近衛大将を兼任する。

この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという。
官位就任とともに、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努めた。
以後、信長はしばしば「上様」と称されるようになる。

これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる。
ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた。

信長後継者任命

同日、嫡子の信忠が秋田城介に任官している。

そして、11月28日、信長は嫡男・信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに岐阜城を中心とした美濃・尾張などの織田家の領国を譲り、斎藤利治・河尻秀隆・林秀貞等を信忠付きの譜代家臣団とした。

天正4年(1576年)1月、交通の要地である近江国安土に安土城を築城することについて、丹羽長秀に奉行を担当させ、同年4月から実際に築城を開始した。
安土城が出来るまでは、譜代家老の佐久間信盛の城(屋敷)を在所とした。

第三次信長包囲網

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。
石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた。
しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した。

織田軍は、苦戦するも光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。

この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する。
謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした。
謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。

天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。
ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた。
この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。

この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。
これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという。
しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった。

織田右府

天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した]。

天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した。
天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという。
しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害する。

11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。
天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。

尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。

中国侵攻

天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。

天正6年(1578年)3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま3月13日の未の刻(午後2時)に死去。

4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した。
このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった。

7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。

10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの、まもなく信長に帰順した。

11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した(第二次木津川口の戦い)。
12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)。

天正7年(1579年)5月には、安土城の天守が地上六階・地下一階の建物として完成を見て、信長はここに移り住んだ。
これは、坂本城などの先行する天守よりも豪華かつ大規模なものだった。

信長は、天守に狩野永徳の手による仏教・儒教・道教の絵画を設け、天守のそばに清涼殿に類似する建物をも造っている。
これは天皇権威の克服や東アジア諸国への進出を意図したものだとも評価されるが、柴裕之は、伝統的な社会権威を尊重する信長の姿勢を示したものだとする。

同年6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される。
光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した。

一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った。
しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した。
そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した。

翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。
数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した。

天正7年の政治状況

11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した。

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。
これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。

しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている。

大坂本願寺との講和

天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。
これにより信長の版図は東国にまで拡大した。

同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)。
ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている。

門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している。
「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた。

この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる。

なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく。
この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある。

その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた。
そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じる。
さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放する。

天下静謐

天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。

この馬揃えは織田軍の実力を朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。

ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。
信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。
ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。

※左義長=小正月に行われる火祭り。宮中では正月15・18日に清涼殿南庭で,青竹を立て扇・短冊などを結びつけて焼いた。
民間では竹を立てて門松・注連縄しめなわ・書き初めなどを焼き,その火で餅を焼いて食べて無病息災を祈る。
どんど。どんど焼き。さいと焼き。さんくろう焼き。ほちょじ。ほっけんぎょう。

2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。
これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。
『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。

高野山包囲

天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。
『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。

信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令、1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。

10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。
10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った]。

天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。

武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。
信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。
しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。

甲州征伐

天正9年(1581年)5月に織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。

7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。
3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。
紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。
2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。

信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。

勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。

4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。
浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城。4月21日に安土城へ帰城した。

信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。
蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。
伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重とともに信長への恭順の姿勢を明らかにしている。

三職推任問題

天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にある。
そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。
このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。

4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。
信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したというが、返答の内容は不明である。

本能寺の変

こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。

この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。

そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。
また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。
そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた。

しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった。

5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。

そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。
光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。信長の光秀に対する信頼は深かった。

一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている。

家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。
信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。

5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する。
この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる。

わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。
しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた、享年49。

信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる。

本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。

宣教師ルイス・フロイス人物評

信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」

彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。

いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。

貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。

酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。

そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。

彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。
形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。
彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。

なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。

『フロイス日本史』より

 

信長分析

残虐性

信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。
そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。

そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである。
また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している。

もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。
また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている。

横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない。

信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である。
『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首を薄濃にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した。

信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』。
桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。

この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。

奇行

『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた。
異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという。

さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている。
このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた。

しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる。
足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える]。
そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという。

家臣の扱い

明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した。

これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している。
池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている]。

また、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。
己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる。
前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる。

他方で、こうした見方には異論も存在する。

神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ、また家臣の取扱いにも慎重だった。

前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している。
従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある。
そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している。

当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという。

信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。
この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている。

例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している。
しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという。
そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという。

元々重臣を軽んじはいなかったが、重臣を各地の前線や領国に配置したこともあり、安土城築城からは年始挨拶に集合する正月儀礼を2回しか行わなかった。
さらに、重臣との合議機関もなく、信長の近侍衆を通じてしか、意思疎通もしにくく、また家臣が裏切るという恐れを考えず起請文を取り交わさず妻子を人質に取っていず家臣団への安定策は不得手だった。これが、重臣の裏切りや政権破綻の原因になったと指摘されている。

信仰

前述した『フロイス日本史』の記述から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている。
しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている。

熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある。
この熱田神宮や、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている。

また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという。

このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの、迷信による弊害を嫌った。

このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である(『信長公記』巻十三)。
無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった。
信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした。

信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。
火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた。

無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した。
さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという。

武芸

前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。
若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという。
さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた。

信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。
『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる。

天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った。
天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。

前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている。

足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった。

このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。
またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった。

趣味

信長は茶の湯に大きな関心を示した。
信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった。
この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという]。

そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)。
甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある。
『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという。

ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである。

また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる。
しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する。

相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[306]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという。
具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという。

幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった。
その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある。

織田信長の名言

・理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ。

・生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。心構えがまるで違う。これが大事だ。

・必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。

・攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。

・器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。

・臆病者の目には、敵は常に大軍に見える。

・仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ。

・恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる。

・およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。

・身の危ういのをかえりみないのは、それほど手柄と言うことはできない。今後はこの心を忘れるな。

・組織に貢献してくれるのは優秀な者よりも能力は並の上だが、忠実な者の方だ。

・人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。

・人は心と気を働かすことをもって良しとするものだ。
用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。
その点、お前は塵に気付いて拾った。なかなか感心である。

・愚かな間違いを犯したらたとえ生きて帰ってきてもワシの目の前に姿を見せるな。

・戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ。

・人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。

・人城を頼らば城人を捨てん

・是非に及ばず(しかたがない。やむを得ない)

参考:ウィキペディア

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