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偉人の生き方から学ぶ処世術、徳川家康の履歴書

tachibanaya 12か月 ago

徳川家康

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Contents
  1. チャンスはただ待つのではない、ひたすら準備して待つことだ!
  2. 徳川家康の生き方
    • 人質
    • 桶狭間の戦いと独立
    • 「徳川」への改姓と今川領遠江への侵攻
    • 三方ヶ原の敗戦
    • 奇跡的な信玄の病いと死
    • 築山殿と信康の武田氏への内通疑惑
    • 本能寺の変と天正壬午の乱
    • 小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従
    • 豊臣家臣時代
    • ポーズの会津征伐
    • 関ケ原の戦い
    • 天下人、征夷大将軍
    • 方広寺鐘銘事件から大坂冬の陣
    • 大坂の陣
    • 徳川家康の名言
    • まとめ

チャンスはただ待つのではない、ひたすら準備して待つことだ!

どんな分野でもトップを射止めるという事は運があっただけのことではありません。
二番は何人もいるでしょうが、一番はその世界でたった一人ですから。

名を成しことをなしたるもの、実力はもとより、運も相当左右していたでしょう。
しかしその運を持つことさえ、その人の技量のうちの一つとも言えます。

彼ら成功者たちの処世術は現代のわたしたちにも大いに参考になるモノでもあります。
ようはそのような偉人たちの足跡から何をを学び何を消化し何を打ち出せるのか、それはわたしたち自身の中にあり、そのこともまた各人の器量でもあります。

ここでは幼い頃の逆境を乗り越え、幾たびかの生死を掛けたた戦いに勝ち続け遂には天下を取った徳川家康に焦点を当てて検証して見ましょう。

徳川家康の生き方

人質

家系は三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日岡崎城 にて誕生します。
母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。

3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。
竹千代は3歳にして母と生き別れになります。

天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなります。

しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られてしまいます。

だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれます。
天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上しています。

2年後に広忠が死去すると今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻します。
竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配されます。

墓参りのために岡崎城に帰参した際にも、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入ったという屈辱を味わっていました。

天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶娶ります。
名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めています。

元康の初陣は、永禄元年(1558年)2月5日今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めたものです。
三河の国衆の大規模な反乱を収める戦である、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めました。

この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条から定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしています。
これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と、今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていました。

桶狭間の戦いと独立

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられます。

しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要がありました。
そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げます。

翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とします。

義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。
松平家の菩提寺である大樹寺に駐屯し、住職の登誉天室と相談の上、今川方が撤収した後、岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとします。

また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説や、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒した今川氏真が、これに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されているところです。

元康に取って、今川側にとどまるか、織田川に付くかとても微妙な時です。
また三河は両国に挟まれて地政学的にも難しい地域です。

永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしています。
しかし、4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にします。

今川の勢力は衰えたとはいえ、関東の北条、そして今川の親戚である甲斐の武田は強敵です。
義元の後を継いだ氏真はうつけ者です。織田方の侵攻と対峙していた元康への軍事的支援は後回しにして、同盟国の武田・北条支援に動きます。
これでは目と鼻の先にいる織田に対抗は出来ません。
仕方なしに元康は織田と結びます。織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したと言えるかもしれません。

この事態は氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せていますが、事態を見誤ったのは氏真であったと云うことです。

永禄5年(1562年)には、家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めています。
一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現はしませんでした。

永禄6年(1563年)には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めます。
同年3月には、同盟の証として嫡男竹千代(信康)と信長・娘五徳との婚約が結ばれます。

「徳川」への改姓と今川領遠江への侵攻

永禄9年(1566年)、朝廷から藤原氏とされ従五位下三河守に叙任され、直前か同時に「徳川」に改姓します。

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣します。
同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年します。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされています。
5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。
籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置きます(遠江侵攻)。

氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けます。
以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移します。

元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とします。
今川氏真も浜松城に迎え庇護します。その後氏真は北条や「時側の庇護を受け、今川家復興もかなわず文化人として一生を終えたという事です。
また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せています。

三方ヶ原の敗戦

家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保します。
信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めます。
しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持します。律儀な家康の一面が出ています。

元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始します。
これにより武田氏と織田氏は手切となり家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍はほぼ孤立という形で武田軍と戦うこととなります。

徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。
浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走してしまいます。

遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう状況です。
そして12月、二俣城は落城してしまいました。

ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ向かって近づきつつあります。

対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進します。

これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。
しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗します。

このころの武田軍は、日本でも最強だったでしょうね。

家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったといいます。

武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされています。
「空城計」とはあえて城門を開けて罠があると思い込ませる方法です。信玄がこのような手に引っかかるとは到底思えません。
たぶん、信玄はこのような弱い家康は捨てて置いたに過ぎないと思いますね。
(三方ヶ原の戦い)

奇跡的な信玄の病いと死

信玄は、浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した国設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束されます。
ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵します。

武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせます。

その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしています。
そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させます。

奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせます。

武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かします。
これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返します。

同年、家康は犬居城を攻めるが、城主天野景貫の奇襲により敗退します。
同時期、武田に内通していたとして、家臣の大賀弥四郎らを捕え、鋸挽きで処刑したりもしています。

信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせます。

一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築きます。

なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞します。

そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせています。

だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になってしまいます。
軍事行動もこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式でしたが、以後は信長臣下としての参軍となります。

信長も天下一と畏れた武田信玄がいなくなったことで、天下取りへの確信が目の舞にあると感じていたからでしょう。

天正3年(1575年)、家康は唐人五官(五官は通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除を認める朱印状を発行しており中国商船が来航して貿易を行っていたことが知られています。
五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人はその後家康に従って江戸に移住したとみられています。

家康は武だばかりではなく商才もあったという事になります。

天正6年(1578年)、越後上杉氏で急死した上杉謙信の後継者を争う御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入しています。
謙信の養子である上杉景勝(謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の上杉景虎(謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻ます。

翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結びます。
この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化しています。

築山殿と信康の武田氏への内通疑惑

また同じころ、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられ、築山殿を殺害し、信康を切腹させたといいます。
だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されています。

天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始します。
織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保します。

ついに勝頼一行は同年3月に自害して武田氏はここに滅亡します。
最後まで抵抗した武田方の蘆田信蕃(依田信蕃)が守る田中城は成瀬正一らの説得により大久保忠世に引き渡されます。

家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還しています(甲州征伐)。

家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待しています。
家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営しました。

信長はこの接待をことのほか喜んだといいます。

本能寺の変と天正壬午の乱

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れます。

6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こります。

このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであったといます。

しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻りました(神君伊賀越え)。

信長の死は折角まとまりかけた諸国の情勢に混乱を生み出します。

織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆。
越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配。

旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、相次ぐ一揆勃発のため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走します。

織田氏と同盟関係を築いていた北条氏は一方的に同盟を破り、武蔵・上野国境に襲来し、滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも次第に押され遂に敗北、尾張国まで敗走します。

このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入ります(天正壬午の乱)。

北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻。
北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南下します。

家康は甲府の尊躰寺・一条信龍屋敷に本陣を置いていたが、新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙します。

徳川軍と北条軍の全面対決の様相であったが、依田信蕃、真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めます。

結果、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものでした。
こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がります。

小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従

信長死後、羽柴秀吉が台頭し、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、主導権を握ります。

家康は賤ヶ岳の戦いで勝った秀吉に、戦勝祝いとして茶器の初花を贈ります。

しかし天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁した織田信雄が、秀吉と対立するようになると、信雄は家康に接近して秀吉に対抗することとなります(『岩田氏覚書』)。

天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流します。

家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣し、秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵します。

4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退(小牧・長久手の戦い)。
後に「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた。

小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、外交戦に入ります。

秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とします。

戦後の和議は秀吉優位であったとされています。

越中国の佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかったといいます。
また、羽柴秀長も決戦すべしと秀吉に訴えますが秀吉はこれを良しとしませんでした。

家康も秀吉も相手の力を知っており、全面対決すれば完全に勝つ予想が出来なかったという事です。
たぶん勢力的には秀吉にやや分があったと思いますが、秀吉には信頼できる子飼いがいません。
しかしながら家康には三河以来の子飼いが沢山いる少数精鋭を持っています。

ですから本当に激突したならばどっちが勝つか分からない状況だったのでしょうね。

家康は秀吉との決戦を控え、関東や信濃の経営の強化に努めます。

天正14年(1586年)に入ると秀吉は家康の懐柔を試み、臣従要求を拒み続ける家康に対して実妹・朝日姫(南明院)なでを正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟とななります。
さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、さすがの家康も拒むことを止め24日に家康は浜松を出立し上洛しています。

家康は何時かは秀吉と一戦し天下を狙う気概はあったとは思いますが、西国はほぼ秀吉の勢力となり、秀吉の自分の妹や母までも人質に差し出す執拗な人たらしに折れた感じでしょうか?
家康の家来はこの秀吉の母子の住まいの周りに薪を積み上げ焼き殺す準備をしていたそうですから、家康もさぞかし逡巡していたことでしょう。

ともあれ家康は秀吉に臣下の礼をもって接し、事実上秀吉の天下が成立します。
家康が並みの武将ならばこれほどの忍耐力はなかったでしょう。伊達政宗の如きならば、もしかしたら天下分け目の戦いを仕掛けていた矢も知れません。
ここであえて忍辱することができる家康のすごさが感じられます。

10月27日、遂に家康は大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明します。。
この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓ったと言い伝えられています。

天下が秀吉に定まった以上、秀吉に忠誠を尽くす、律儀な家康とも見て取れます。
しかしそのことが事実であったにせよ、世は無常であり、天下は持ち回り、天の定めにより決まる。
そのことを家康は自身の経験の中で学び取っていたに違いありません。

豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、京へ上り、11月5日に正三位に叙されます。。
天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれます。
押しも押されもしない豊臣政権のナンバー2です。

家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促します。

家康が北条親子のことを讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない
今月中に兄弟衆を京都に派遣する
豊臣家への出仕を拒否する場合、娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる

しかし、北条氏直は秀吉に臣従することに応じません。

これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。
家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には吉川広家が豊臣家の城番として岡崎城に入城しています(小田原征伐。

天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封されてしまいます。

当時の関東は京、大阪から比べれば僻地です。
また箱根の関の東に追いやることにより、愁いを取り除いたとも言えます。

しかし、良く考えてみれば、この関東移封は虎を矢にはなったも同然とも言えます。

この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)119万石(実高150万石とも)から関東250万石になるのです。

慶長元年(1596年)5月8日、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられます。
これ以後は江戸の内府と呼ばれるようになるのです。

秀吉が力を落とす原因となった朝鮮出兵は、なぜか家康は渡海しなかったことは賢明でした。
秀吉が九州に渡り陣頭指揮をしていた関係上、内政を司どっていたものと推察されます。
結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができたという事になります。

慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れ8月に秀この世を去ります。

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になります。
秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため誰に遠慮はいりません。

秀吉により禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を破り、しかも婚約した娘は全て家康の養女として自分の勢力を広げます。

伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。

このころになると家康の意思ははっきりしています。

ポーズの会津征伐

慶長5年(1600年)3月、家康は上杉征伐と称し、ゆるゆると塀を進め、豊臣方の大名の郷港を見極めようとします。
上杉氏征伐は、朝廷と豊臣氏から「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形であったため正義は家康にあります。

これがないと私闘隣評価されません。後、明治維新に官軍が錦の御旗を掲げたこともこれに当たります。

この行軍はとにかく家康は急ぎません。何かを待っているかのようにそろそろと進みます。
6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っています。

この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方が有力です。
しかもこの間にいろいろ手を打って豊臣方の切り崩しを進めます。
会津なんてうつつもりなどいささかもありません。家康の作戦です。

ついに三成は家康の作戦に引っかかります。『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条におよぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布し兵を挙げます。
家康の重臣、鳥居元忠が守る伏見城は4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死、伏見城は落城します(伏見城の戦い)。

家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知ります。

家康は上杉氏征伐に従軍していた諸大名を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げます。
秀吉子飼いの、福島正則ら武断派の大名らは、光成憎しの思いから家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されてたのです(小山評定)。

関ケ原の戦い

東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて7万5千3百。
西軍は10万8千7百が、関ヶ原で激突します。

約6時間でその勝敗が決まったと言われています。
兵の数で下回った東軍が勝ったのは、西軍の裏切り、あるいは日和見が原因と云われています。
それはそうです。大将が三成では、権謀術数にたけた家康には到底かないません。

なにしろ秀吉の細君であった高台院までが、どっちに付くか相談に来る子飼いに家康を応援しろと言っているのですから。
人の心が読めない、正義感だけの光成では力不足だったという事です。

もしかしたら秀頼が戦場に出ていれば何とかなったかもしれません。
関ヶ原の合戦時、豊臣秀頼は7歳の幼君でしたから、光成の横に侍らせればねぇ。

天下人、征夷大将軍

慶長5年(1601年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に、九条兼孝が家康の奏上により任じられます。
このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻ることになります。

関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)3月23日、家康は伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行います。
征夷大将軍になるという事は、秀頼の天下は認めないという事になります。

このとき秀頼(淀君)が不服を云わず、大阪城を出て、関西の一大名となることを申し出ていたら大阪冬の陣も夏の陣も起こらなかったでしょう。
徳川の親戚として生きながらえたかもわかりません。

慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示しました。

同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。
結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まります。

秀頼(淀君)の怒り心頭です!

慶長16年3月28日、二条城にて秀頼と遂に会見が実現します。
当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、ついには家康の意に沿います。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したことになります。
4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれています。

家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もあります。
秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいるのです。

しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていきます。
そのような中、結城秀康、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の大名が次々と死去してしまいます。

さらに豊臣氏は、多くの浪人を雇い入れて、それは幕府の警戒を強めることになります。

そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、幕府が動き始めることになります。

方広寺鐘銘事件から大坂冬の陣

現在も残る方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字のうち国家安康は大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとする言いがかりをつけます。
徳川側にとって難癖は何でも良かったのでしょう。

家老・片桐且元が弁明を試みるも、家康は会見すら拒否し、且元を大坂へ返します。
且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図りますが、当然のごとく豊臣氏(淀君)は拒否。
且元が家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告します。

慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途につきます。
兵の数20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲し、あえて力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めます。

家康は大筒・和製大砲)を大阪城に向けて放ち、城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅ろかせます。
この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦を申し出て冬の陣は終わります。

その結果大阪城は「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める」ことで裸城となってしまいます。

大坂の陣

このころ、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。
主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出ます。

そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。
さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込みます。

攻め寄せる15万の幕府軍を支えきれず、ついに大坂城は落城します。
5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、ここに豊臣宗家は滅亡してしまいます。

全ての憂いを拭い去った家康は、元和2年(1616年)1月21日、病のため鷹狩に出た先で倒れてしまいます。

3月21日、朝廷から太政大臣に任ぜられたが、これは武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。

4月17日巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去した。
死去に際して幕府は、大名・旗本に対して家康弔問のための下向は無用と伝え、寺院に対しても後述する遺言で法事を行う増上寺以外の法要は不要である旨を伝達している。

『東照宮御実記』が伝えるところでは、以下の2首を辞世として詠んでいる。

「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

徳川家康の名言

・人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず。

・勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る。

・堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。

・いくら考えても、どうにもならぬときは、四つ辻へ立って、杖の倒れたほうへ歩む。

・得意絶頂のときこそ隙ができることを知れ。

・及ばざるは過ぎたるより勝れり。

・決断は、実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。

・人は負けることを知りて、人より勝れり。

・人生に大切なことは、五文字で言えば「上を見るな」、七文字で言えば「身のほどを知れ」。

・己を責めて、人を責むるな。

・いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある。

・天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。

・我がために悪しきことは、ひとのためにも悪しきぞ。

・最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。

・愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる。

・大事を成し遂げようとするには本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ。

・願いが正しければ、時至れば必ず成就する。

・滅びる原因は、自らの内にある。

・不自由を、常と思えば、不足なし。心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。

・真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず。

・怒るときには、百雷の落ちるように怒れ。

・われ独り出頭して、一人して事を埒あけたがるように致す、これ大なる病なり。

・あぶない所へ来ると、馬から降りて歩く。これが秘伝である。

まとめ

家康は忍耐の人と云えます。
耐えて耐えてチャンスを待つ。

ただ待つのではなく、準備して待つ。
事に当たる前に準備が整っていれば、失敗は少ないでしょう。

家康の生き方には、わたしたちもまね良いことがいっぱいあります。
そしてそのチャンスが来たときには、力の限りを尽くし挑戦する。
家康の努力と、うちに秘めた燃えたぎる炎を感じていただければ幸いです。

参考:ウィキペディア

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