偉人の生き方から学ぶ処世術、豊臣秀吉の履歴書
秀吉に転職の成功例を見た!
勤め人なら誰も立身出世を夢みるわけですが、なかなか難しいものですね。
例え競争に勝ち抜いてやっと官庁や一流企業に勤めたとしても、そこにはライバルたちが虎視眈々として眼を光らせウヨウヨしています。
この中で頭角を現し、競争に打ち勝ってポジションを上げてゆくのは並み大抵のことではありません。
政治の世界だってそうです。例えば政治のトップと云えば総理大臣ですが、その総理だって、例えば、現在の岸田総理だってどれほどの年月を要してきたのでしょうか?
総理を目指して志半ばで斃れていった人が如何ほどいたのでしょうか?
その道のトップになることが如何に難しいかの一例です。
さて古今東西、立身出世と云えば、わたしの知る限り、戦国時代の豊臣秀吉がナンバーワンです。
秀吉は貧しい百姓の子として生まれ、遂には人臣位を極め、関白太政大臣にまで上り詰めました。
では、彼はなぜ、そのような出世街道を駆け上ることができたのでしょうか?
そこのところを、私なりに想像を交え考えてみたいと思います。
- 氏名 木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 → 藤原秀吉 → 豊臣秀吉
- 生誕 天文6年2月6日(ユリウス暦1537年3月17日
- 死没 慶長3年8月18日(グレゴリオ暦1598年9月18日)
- 官位(出世)筑前守、従五位下・左近衛権少将、従四位下・参議、従三位・権大納言、正二位・内大臣、従一位・関白、太政大臣、贈正一位
最初は家業の手伝いから
豊臣秀吉の父親は木下弥右衛門という平時は農家として田畑を耕し、戦時中のみ戦争に参加して武士の身分を与えられる足軽でした。
秀吉は姉、弟、妹の4人兄弟で長男という立場上、父親の田畑を継承して農家を引き継ぐべき立場でした。
この時代、子供は労働力となったので、秀吉も姉や弟と一緒に農業の手伝いをしていました。
しかし、秀吉は野良仕事が嫌いで仕事をサボっていたそうです。
木登りが得意になったのも仕事をサボったときに姉や母親から逃げるべく、家の側に生えていた大きな木に登って極めたからであると伝えられています。
まだ10代前半であったときから秀吉は、実家の身分に満足しておらず、「どうしたら生活が豊かになれるか?」「どのような仕事が儲けられるのか?」ということを常に考えていたようです。
野菜売りに転身
「そうだ!!家で作った野菜を町で売り歩こう」
10代も半ばになった頃、豊臣秀吉はこのようなアイディアを思いつきました。
偉いですねぇ、今では中学生か高校生の始まりの頃です。
江戸期以前は八百屋さんというお店は少なく、野菜を購入するには定期的に開催される市場や行商人から買うことがほとんどでした。
市場は農家や漁師が各自で収穫したものを直接売るので安いのですが、定期的にしか開催されないという時間的な問題がありました。
行商人や問屋から購入する場合は市場で売られる相場の値段に問屋や行商人の儲けが上乗せされるので、必然的に高くなります。
これに目をつけた秀吉は親兄弟に田畑の仕事を任せ、自身は足が速いことを理由に町で野菜を売り歩く野菜売りに転身しました。
油売りに転身
実家で採れた野菜を売って生計を立てていた秀吉でしたが、野菜売りの仕事はうまくいきませんでした。
そんなとき、美濃で油売りをしていた斎藤道三が国主を追放して城を乗っ取るという大事件が起きました。
秀吉もこれに習おうとして野菜売りから油売りに転身をしました。
ここでいう油売りが売っていた油とは椿油のことを指します。
椿油は女性や力士が髪を整えるために使っていた整髪料で、それなりに需要がありました。
さらに椿の種を絞って抽出する椿油は単価が高かったのです。
油売りの商売は取っ手のついた桶と柄杓を持ち、一軒一軒に飛び込み営業をして買い手がつけば買い手の用意した器に注文された量の椿油を流し入れます。
椿油はトロトロとした粘度の高い液体なので、世間話をしながら器に油を入れていたそうです。
その様子が仕事をサボったり、寄り道をして時間を無駄に消費するときに使われる「油を売る」という語源になりました。
針売りに転身
油売りでもあまりよい成功を収めることができなかった秀吉は次に針売りという仕事に目をつけました。
針は細い金属に穴をあけるため、作るにはとても難しいが高く売れるもののひとつでした。
秀吉は健脚を活かして街だけでなく、地方にまで針を売り歩きました。
何より針は小さいので持ち歩いて売るのに野菜や油ほどの体力がいりませんでした。
頭がいい秀吉の一面が窺われます。
行商人ではダメ…安定した仕事は?
農家、野菜売り、油売り、針売りとなんでも器用にこなしてきた秀吉でしたが、行商人は売れるときと売れないときの波が激しく、このままでは生活をしていくだけで大きな成功や出世を夢見ることさえ難しいと考えました。
斎藤道三の出世を見ていますから、ワシも…
と考えたのに相違ありません。
だから、次に考えた職業が武家の奉公人という職業です。
奉公人とは掃除や炊事、馬の世話などの雑用をこなす使用人のことで、定期的に安定した収入を得ることができました。
奉公人となるには紹介状が必要で、仕える武家の規模により俸禄が異なります。
秀吉は叔父の紹介を受けて最初は尾張の松永氏の奉公人として働き始めます。
奉公人として働き始めて数年後、帰省中に秀吉は母親からよい情報を入手します。
竹馬の友ともいえる親友が織田家の奉公人の長に昇格し、なおかつ織田家は庶民出身でも見込みがあれば採用してくれるという情報でした。
秀吉は松永氏に直談判して紹介状を書いてもらい、親友のつてで帰蝶こと濃姫(信長の妻)の使用人として働くことが決定しました。
そしてこのことが、秀吉を関白太政大臣へまで引き上げた切っ掛けとなったのです。
信長の草履取り(1558年)18歳の頃
『太閤素性記』には知人の紹介で、信長の草履取りとして召し抱えられたという説が紹介されています。
草履取りであれば、気難しい信長に接する機会が多いわけですから、きっと秀吉のことですから才覚を使い大いに気に入れられていたに違いありません。
しかし信長は人を見る目は天下一です。しかもとても気難しい人です。
彼の目に止まらなければ、織田家での出世ができないばかりか短気な信長のことです。
もし、いささかの祖そうでも仕出かしたならば、首がなくなった環境です。
いずれにしても、少なくとも桶狭間の戦いが勃発する永禄3年(1561年)までには信長に仕え、無名の一武将として同戦に参加していたと推測されています。
秀吉の出世過程
こうして信長に仕えることとなった秀吉は、急速な出世を遂げていったと考えられています。
『太閤記』によると、清須城の城壁修理や合戦の練習で信長に高く評価されたなど、さまざまな逸話が紹介されています。
もちろん、このあたりの逸話については真実かどうかを検証するということは難しいです。
しかしながら、これだけ身分の低い秀吉が瞬く間に立身出世を遂げた背景には、それ相応の働きがあったと考えるのはもっともでしょう。
実際、永禄11年(1568年)に発給された文書の署名欄では、すでに丹羽長秀ら宿老クラスの家臣と同格に扱われていた形跡が散見されます。
この出世スピードは尋常なものではなく、コネがないとすれば、極めて優れた才覚を発揮し、かつ、よほど信長に気に入られたという可能性以外は考えにくいです。
また、秀吉が信長の家臣として確固たる地位を築いたきっかけは、美濃攻略にともなう墨俣城(現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣)の築城による功だという見方がなされています。
墨俣一夜城歴史資料館
現在、墨俣城跡は公園として整備され、大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられています。
秀吉の逸話を紹介する際に必ずといっていいほど取り上げられる「一夜城伝説」が完全に真実であるとは考えにくいですが、複数の史料で築城に関する何らかの功があったという記載は一致しています。
そのため、少なくとも美濃攻略に大きな貢献をしたという点に関しては信頼してもよさそうです。
こうして信長家臣として一目置かれるようになった秀吉は、その後も金ケ崎の退き口や中国大返しなどの逸話で知られるように才覚を最大限に発揮し、やがて天下人として名を馳せることになるのです。
秀吉の立身出世の理由は?
さて、ここまで秀吉と信長の生い立ちや出会い、そして立身出世までの過程を紹介してきました。
こうして内容を概観すると、秀吉の出世がいかに劇的なものであったかよくわかるのではないかと思われます。
では一体何故、秀吉はこれほど急速に出世を遂げることができたのでしょうか。?
この考察に関しては「信長が秀吉を気に入っていたから」というような内面的分析にとどまらず、信長や秀吉を取り巻いた周辺の環境や生い立ちを含め、多角的な視点からの分析を取り入れて、考えていきたいと思います。
出世の理由その1:秀吉の優れた才覚
まず、秀吉側から立身出世の要因を考えると、やはり才覚に極めて優れていたという点を避けては通れません。
この部分は先ほども触れたので詳しく言及はしませんが、単純に気に入られていたという好みの問題だけでは説明がつかないことも多々あるためです。
逸話にあるように草履を温めていたかはわかりませんが、そうした機知に富んだ発想ができる人物であったことは間違いありません。
出世の理由その2:信長が構築した特有の主従関係
もう一つの要因として信長家臣には新参の武将も多く、何の後ろ盾もない秀吉であっても才覚があれば渡り歩いていける状況が彼を助けたのは間違いありません。
実際、秀吉には譜代の家臣が極めて少なく、譜代がいない際にしばしば家臣として重用される縁戚者すらも決して多いとは言えませんでした。
こうした状況で秀吉が「お家騒動」に巻き込まれでもすれば、後ろ盾が頼りないのは明らかです。
ただ、信長が従えた織田家は明確な主従関係と中央集権が完成された近代的システムを構築できていました。
このため、 守護から転身して戦国大名になった家にしばしばみられる「強大な権力を持つ家臣が複数存在する」というようなことはなかったのです。
信長の評価が家内の評価に直結したことで秀吉の身は守られていたと考えられます。
出世の理由その3:信長のお気に入り
まず、通説としてイメージされがちな「信長が秀吉を気に入っていたか」という点に関しては、間違いなく事実だと考えられます。
信長は好き嫌いが激しい人物であった一方、個々人の能力を重視して家臣を厚遇する傾向にありました。
そのため、人柄と能力のどちらがお眼鏡に叶わなければこれほどの出世は考えられなかったでしょう。
出世の理由その4:二人の生い立ち
冒頭で秀吉と信長の生い立ちに触れましたが、これが秀吉の立身出世に大きな影響があると考えられます。
そもそも、信長が能力重視で家臣を選定したという点も、彼の希望というよりは「そうせざるを得なかった」という背景があります。
実際、信長誕生当時の織田家や尾張国は混沌としており、親兄弟や家臣同士が対立しているという有様でした。
信長はこうした背景をもっていた尾張国を統一しますが、その過程で多数の家臣や兄弟と対立していたのが実情です。
したがって、信長が新参者を重用した理由には「旧来の家臣や家族を信用できなかった」という後ろ向きな動機も関連していると推測できます。
この点は「信長の人材登用センスが優れていた」ために実力主義の様相を呈していたと考えられがちですが、それだけでは考えらえないことも多いです。
さらに、信長は猜疑心が強い人物だったとされています。
育った環境を考えると、それもやむを得ないかもしれませんが、何度も家臣の裏切りに遭いながらそれを許すこともあった信長はただ者ではなかったのでしょう。
こうした信長が抱えていた事情は、間違いなく秀吉の立身出世に良い影響を与えたと考えられます。
実際、明智光秀や秀吉など、信長に重用されていた家臣たちには仕えた当初、彼との「縁」によるつながりはほぼ皆無でした。
本能寺の変
信長のもとで大出世をし、やがて本能寺の変を迎えます。
年表本能寺の変から豊臣姓を賜るまで
- 天正10年 1582年 4月-6月4日 46歳 備中高松城の戦い
- 6月2日 本能寺の変が起こる
- 6月13日 山崎の戦い
- 6月27日 清洲会議
- 天正11年 1583年 4月 47歳 賤ヶ岳の戦い
- 11月 本拠を大坂城に移転。
- 天正12年 1584年 3月-11月 48歳 小牧・長久手の戦い
- 10月3日 従五位下・左近衛権少将
- 11月21日 従三位・権大納言
- 天正13年 1585年 3月-4月 49歳 紀州征伐
- 3月10日 正二位、内大臣宣下
- 6月-8月 四国攻め
- 7月 近衛前久の猶子となる、藤原改姓
- 7月11日 従一位・関白宣下、内大臣如元
- 8月 富山の役
- 10月 惣無事令実施(九州地方)
天正14年 1586年7月50歳九州征伐開始(~天正15年4月) - 9月9日 賜豊臣氏
- 1587年 12月19日 内大臣辞職
- 12月25日 太政大臣兼帯
天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んみ(高松城の水攻め)。
最後の仕上げとして信長に花を持たせるために、信長に援軍を要請ました。
ここにも大一級の処世術が見て取れます。
自分達だけで勝てるのにあえて信長に花を持たせるためです。
これまでも信長の理不尽ともいえる横暴で殺された同僚が何人もいたから、信長の機嫌を損ねないため細心を払っていたのです。
園信長の性癖により明智光秀が堪忍袋の緒を切り造反します。
本能寺の変です。
天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長は京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害します(本能寺の変)。
このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した(中国大返し)。
この時の秀吉の行動がすごかったですね。電光石火です。
当時、秀吉の立場に誰がなっていても、秀吉ほどの行動はとれなかったのではないか?
私はそう思っています。
6月13日、秀吉は山崎において明智光秀と戦った。この戦いでは、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれます(山崎の戦い)。
秀吉の人たらしの面目躍如です。
秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握します。
この後がまたすごいです。織田家には跡取りもいて、家臣たちも大勢います。
6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれます(清洲会議)。
織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推しますが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推します。
明智を打ち主君の硬きを取ったことが優位に運びます。
電光石火で取って返し、中川清兵衛を誑し込め、こうなることを予想して行動した秀吉の能力の高さは、他のものと暮部るべくもありません。
清洲会議で秀吉は幼い三法師の後見人になって実権を握ります。
が実際は、ちょっと違って、織田信孝が後見人です。この信孝が秀吉に敗れて織田の権威が失墜します。
次の後見人、信雄も敗れて下克上完了です。
あとはとんとん拍子に、反勢力は全て秀吉になびき天下人となります。
天下統一
全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせました。
しかし秀吉は自ら「人を切ぬき申候事きらい申候」と語るように非殲滅主義を貫き、寛容ともいえる態度で毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった多くの大名を助命し、これにより短期間で天下一統を成し遂げることができたわけです。
しかし、これについて藤田恒春は「当該期の武者であれば武をもって相手を倒す選択肢しかなく、結果的に豊臣政権のアキレス腱となった」と批判もしています。
徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであったわけです。
このことが後の徳川政権に変わるのですから、とかくこの世は持ち回りという事になりますかねぇ。
豊臣秀吉の名言
・戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。
・戦は六、七分の勝ちを十分とする。
・敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ。
・主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。
・主人は無理をいうなるものと知れ。
・一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる。
・家康は愚か者だ。が、油断のならない愚か者だ。
・側に置いておそろしい奴は、遠くに飛ばす。
・負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。
・いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。
・財産を貯め込むのは、良い人材を牢に押し込むようなものだ。
・人と物争うべからず、人に心を許すべからず。
・降参した者を殺してはいけません。
・やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる。
・何事もつくづくと思い出すべきではない。
・人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。
最期
慶長3年8月18日、秀吉はその生涯を終えます。
死因については諸説あり定かではありません。
辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」
男と生まれたならば、秀吉のように立身出世がしたいですか?
それとも平々凡々の幸せで良いですか?
望みはひとそれぞれであり、たとえ望んでもかなえられることは少ないです。
いずれにしても、ひとは誰も必ず死ぬという事は確かなようです。
まさに「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」であります。
参考:ウィキペディア